「皇籍離脱」について調べてみた 1947年皇籍を離れた11宮家とは

2019年3月30日、旧皇族の東久邇信彦さん(74)が逝去されました。
「東久邇信彦さんが2歳だった1947年10月に、ほかの10宮家とともに皇籍を離れた」という記述があり、気になったので「1947年(昭和22年)の皇籍離脱」や「旧皇族」について調べてみました。

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1947年(昭和22年)の皇籍離脱とは

「皇籍離脱」とは文字通り、皇族が皇籍を離れる(皇族ではなくなる)ことを言いますが、「1947年の皇籍離脱」は若干意味合いが違ってきます。

「1947年の皇籍離脱」は、1947年(昭和22年)10月13日の皇室会議で、内廷皇族および秩父宮・高松宮・三笠宮の直系3宮家を除く傍系11宮家が皇籍を離脱したことを言いますが、当時の日本は連合国による占領下にあり、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による皇族弱体化の思惑が見え隠れします。

終戦直後から皇族の数人が皇籍を離れる意向をもっていた?

1947年10月13日の皇族会議において、議長・片山哲(当時の総理大臣)が説明したところによると、

今次戦争が終結しました直後より、皇族のうちから、終戦後の国内国外の情勢に鑑み、皇籍を離脱し、一国民として国家の再建に努めたいという御意思を表明せられる向があり、・・・

とあります。
さらに、1947年9月30日の衆議院予算委員会において、加藤進宮内府次長は、

今回皇族の列を離脱せらるべき十一の宮家の大人の方が、ほとんど全部皇族の列を離れる希望を表明されたのであります。

と説明しています。

皇籍離脱にはGHQの圧力があったのか?

前述した通り、当時の日本は占領下にあり、どんな些細なことでもGHQに“お伺い”を立てなければ決まらないのが現実でした。というより、GHQの言う通りに、日本政府が施政することが当たり前な時代でした。
前年の1946年(昭和21年)5月には、GHQが『皇族の財産上その他の特権廃止に関する指令』を発令しています。
このような状況から、皇籍離脱もGHQによる何らかの圧力があったと見るのが、妥当だと思います。

皇籍離脱した11宮家とは

1947年(昭和22年)に皇籍離脱した11宮家(旧宮家)は、室町時代から続く伏見宮家の男系子孫にあたります。
旧宮家では伏見宮貞成親王の第一王子・彦仁王が後花園天皇(1428-1464)として皇統を継ぎ、この系統が現在の皇室まで続いています。

伏見宮

伏見宮(ふしみのみや)は、1456年から続いた宮家で、世襲親王家の筆頭でもありました。
世襲親王家というのは、天皇家からの血縁が遠くても、代々「親王宣下」を受けて親王の身分を維持してきた宮家のことです。

  • 伏見宮博明王(第26代当主)
  • 博義王妃朝子(博明王の母)
  • 光子女王(博義王第1女子)
  • 章子女王(博義王第2女子)

以上の4名が皇籍を離脱しています。
博明王は皇籍離脱当時は15歳でしたが、後に「伏見博明」と名乗り、マサチューセッツ工科大学に留学後、モービル石油に入社しています。
現在はモービル石油顧問のほか、日本文化振興会総裁なども務めています。

閑院宮

閑院宮(かんいんのみや)も世襲親王家のひとつで、東山天皇の第六皇子・直仁親王を祖とする宮家です。

  • 閑院宮春仁王(第7代当主)
  • 春仁王妃直子

以上2名が皇籍離脱しています。
春仁王は、敗戦の責任を取るため皇籍を離れたいという皇族もいるなか、「皇族の使命を軽んじ自ら卑下して時勢におもねるもの」と皇籍離脱の流れに反対する立場を取っていました。

春仁王は1947年の皇籍離脱後、「閑院春仁」と名乗り(後に「純仁」と改名)、小田原に移住したそうです。1988年にお亡くなりになりました。

山階宮

山階宮(やましなのみや)は、伏見宮邦家親王の第一王子・晃親王が創設。幕末に誕生した宮家です。
第3代当主の山階宮武彦王は、関東大震災で当時ご懐妊されていた佐紀子妃を亡くし、1947年、山階宮家では武彦王のみが皇籍を離脱しました。その後「山階武彦」を名乗り、1987年まで生きましたが、後継ぎはなく山階家は断絶しました。

北白川宮

北白川宮(きたしらかわのみや)は、明治初期に誕生した宮家です。伏見宮邦家親王の第13王子・智成親王が創設しました。

  • 成久王妃房子内親王(明治天皇の第7皇女・道久王の祖母)
  • 北白川宮道久王(第5代当主)
  • 永久王妃祥子(道久王の母)
  • 肇子女王(永久王の第1女子)

以上の4名が皇籍を離脱しました。
道久王は10歳の時に皇籍を離脱。北白川道久を名乗り、学習院大学を卒業後は、旧華族・玉里島津家の島津忠承の三女・慶子と結婚しました。一時、東芝に勤務していたようですが、神職に進み、2001年から2007年まで伊勢神宮の大宮司を務めていました。2018年にお亡くなりになっています。
また、道久さんの妹・肇子さんも島津忠承の長男・忠廣と結婚。北白川家の兄妹が、それぞれ玉里島津家の兄妹と結婚したことになります。

梨本宮

梨本宮(なしもとのみや)も、明治初期に創設られた伏見宮系の宮家です。伏見宮第19代当主・貞敬親王の第十王子・守脩親王が創設しました。

  • 梨本宮守正王(第2代当主)
  • 守正王妃伊都子

の2名が皇籍離脱したが、守正王(梨本守正)は1951年に76歳で亡くなっています。残された伊都子さんは、多嘉王(久邇宮朝彦親王の第5王子)の三男・龍田徳彦(戦前に臣籍降下し華族となっていた)とその妻を養子に迎え、梨本家を存続させています。

久邇宮

久邇宮(くにのみや)は、明治初期に伏見宮邦家親王の第4王子・朝彦親王が創設した宮家です。昭和天皇の皇后・香淳皇后は久邇宮家のご出身です。(久邇宮邦彦王の第一女子)

  • 久邇宮朝融王(第3代当主・香淳皇后の兄)
  • 邦昭王(朝融王の第1王子)
  • 朝建王(朝融王の第2王子)
  • 朝宏王(朝融王の第3王子)
  • 邦彦王妃俔子(香淳皇后の母)
  • 多嘉王妃静子
  • 朝子女王(朝融王の第2女子)
  • 通子女王(朝融王の第3女子)
  • 英子女王(朝融王の第4女子)
  • 典子女王(朝融王の第5女子)

久邇宮家では以上の10名が皇籍離脱しています。11宮家の中で最多人数です。

賀陽宮

賀陽宮(かやのみや)は、明治中期に久邇宮の初代当主・朝彦親王の第2王子・邦憲王が創設した宮家です。

  • 賀陽宮恒憲王(第2代当主)
  • 恒憲王妃敏子
  • 邦寿王(恒憲王第1王子)
  • 治憲王(恒憲王第2王子)
  • 章憲王(恒憲王第3王子)
  • 文憲王(恒憲王第4王子)
  • 宗憲王(恒憲王第5王子)
  • 健憲王(恒憲王第6王子)

賀陽宮は6名の王子がいたため、皇籍離脱は8名となりました。6名の王子のほか、美智子女王がいましたが、戦中に徳大寺実厚公爵の次男と結婚し、臣籍降嫁しています。
恒憲王は戦後すぐに皇族の臣籍降下(皇籍離脱)を主張していて、皇籍離脱後すぐに自ら区役所に出向き住民手続きをしています。

東伏見宮

東伏見宮(ひがしふしみのみや)は、伏見宮邦家親王の第8王子・仁和寺宮嘉彰親王が明治3年に改名したときに称した宮号(明治15年に小松宮彰仁親王に改める)でしたが、小松宮の養子になっていた邦家親王の第17王子・依仁親王が、小松宮彰仁親王の薨去の際、小松宮の継嗣を解かれたので、「東伏見宮」として新たに創設しました。

依仁親王は大正11年に薨去されましたが、継嗣がなく、その後は依仁親王妃周子さまが、1947年の皇籍離脱まで継承しました。

竹田宮

竹田宮(たけだのみや)は、北白川宮能久親王の第1王子・恒久王が、明治39年に創設しました。

  • 竹田宮恒徳王(第2代当主)
  • 恒徳王妃光子
  • 恒正王(恒徳王第1王子)
  • 恒治王(恒徳王第2王子)
  • 素子女王(恒徳王第1女子)
  • 紀子女王(恒徳王第2女子)

以上6名が皇籍離脱しました。
恒徳王は皇籍離脱後に「竹田恒徳」と名乗り、日本スケート連盟会長、国際オリンピック委員会(IOC)委員などの要職に就いています。

皇籍離脱後に生れた三男の竹田恆和氏は、日本オリンピック委員会(JOC)会長(2019年6月で退任)で、2020年東京オリンピック・パラリンピックの大会組織委員会副会長も務めています。「明治天皇の玄孫」として有名な作家の竹田恒泰氏は恆和氏の息子です。

朝香宮

朝香宮(あさかのみや)は、久邇宮朝彦親王の第8王子・鳩彦王が、明治39年に明治天皇から宮号を賜り、創設した宮家です。

  • 朝香宮鳩彦王(初代当主)
  • 孚彦王(鳩彦王の第1王子)
  • 誠彦王(孚彦王の第1王子)
  • 孚彦王妃千賀子
  • 冨久子女王(孚彦王の第1女子)
  • 美乃子女王(孚彦王の第2女子)

以上6名が皇籍を離脱しました。
鳩彦王は「朝香鳩彦」を名乗り、1981年に93歳で逝去されています。
孚彦王の朝香孚彦さんは、日本航空に勤務し、1994年に81歳で逝去されました。妻・千賀子さんは1952年に結核のため31歳の若さでこの世を去っています。

東久邇宮

東久邇宮(ひがしくにのみや)は、久邇宮朝彦親王の第9王子・稔彦王が明治後期に創設した宮家です。

初代当主の東久邇宮稔彦王は、敗戦直後に内閣総理大臣(第43代)に就任されています。なお、東久邇宮内閣は約2か月の短命内閣でした。

  • 東久邇宮稔彦王(初代当主)
  • 稔彦王妃聡子内親王(明治天皇の第9皇女)
  • 盛厚王妃成子内親王(昭和天皇の第1皇女)
  • 盛厚王(稔彦王の第1王子)
  • 俊彦王(稔彦王の第4王子)
  • 信彦王(盛厚王の第1王子)
  • 文子女王(盛厚王の第1女子)

東久邇宮稔彦王は、皇籍離脱後は「東久邇稔彦」と名乗り、1990年に102歳で逝去されています。妻の聡子さんは1978年に81歳で逝去しています。

昭和天皇の皇女であり、盛厚王妃でもある東久邇宮成子内親王は、皇籍離脱後は「東久邇成子」と名乗り、盛厚さんとの間に更に3人の子が誕生しました。
しかし、成子さんは突然病に倒れ、1961年にがんのため35歳の若さで逝去されました。
盛厚王の東久邇盛厚さんは、成子さんと死別後に再婚し、2人の子があります。1969年に肺がんのため52歳で亡くなっています。

俊彦王は、在サンパウロ総領事・多羅間鉄輔氏の未亡人キヌさんの養子となり、「多羅間俊彦」を名乗っています。ブラジルに移住し、2015年に86歳で他界しました。

盛厚王と成子内親王の子、信彦王は、皇籍離脱の時は2歳でした。「東久邇信彦」と名乗り、慶應義塾大学卒業後に三井銀行に就職しています。全日本野球会議名誉会長、日本タイ協会常務理事、日本モンテネグロ友好協会名誉総裁などの要職にも就いていました。2019年3月20日に74歳で亡くなりました。
文子女王は、皇族離脱当時は1歳と旧皇族の中では最も若く、2019年には73歳になりますが、ご存命のようです。